自然観

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人間は自然環境の一部である。人間と生き物とがいつまでも共存できる自然環境を目指せる社会を実現するためには、日常から感性を研ぎ澄ませ、理性的な対話をもとにした行動が必要である。

自然環境とは

私たちが残そうと努力している自然環境とは、どのようなものでしょうか。今日はそれを話し合う集まりに出かけました。

現代都市に生きる私たちが感じられる自然環境は、地球上のごく限られた手つかずの地を除いて、何らかの人間活動の結果です。仮に地球史上で人類が誕生していなければ、地球の環境は、あるがままの「自然」であったことでしょう。きっとそこには、現実よりも豊かな生物多様性が残されていたかもしれません。

「自然」とは、本来「あるがままの状態で、物事の本質からおのずともたらされる結果」を意味するとのことです。したがって、人間活動の介入によって「作られた」ものは、自然とは言えないのかもしれません。しかしこの考え方は、「人間は自然と切り離された存在である」という前提に基づいています。そもそも、人間も、自然環境の一部なのではないでしょうか。

担い手としての人間

私は、保全活動の理念、すなわち目指す理想の自然を、「人々が生き物とのつながりをいつまでも感じられる社会」と定義しています。そして「目指す環境教育活動」に書いた通り、保全活動を行う主体は人であり、人が生きていけなくなるような方法はよくありません。

人間も自然環境の一部として、自然環境から多大な恩恵を享受しながら生きています。しかし、保全活動を議論するときには、どうしてか得てして「人間」対「自然環境」という構図で、人間と自然環境との間に距離を置いた立場での議論になりがちです。

私はこの原因を、人々は人間生活の営みの中で、時として自然環境と切り離された状態に身を置き、それを日常のものとして受け入れている瞬間があるためではないか、と考えました。例えば、そよ風の心地よさを感じ、鳥や虫の鳴き声を聞きながら街並みを歩いているときは、自然環境の中に身を置いていると言えるかもしれません。一方で、車や電車に乗ったり、マンションやオフィスビルの中に入ったりして、空調のコントロールされた環境は、ほとんど完全に人間だけの作り出した環境であり、自然環境とは距離を取られている訳です。そしてこの状況下では、自然環境を人間社会とは別の世界の対象として捉えてしまうことが起こることも不思議ではありません。

ここで、人間が自然環境に対して手を加えたことは、大なり小なり、遅れて人々に対するフィードバックを、時に災害などの悲惨な結果としてもたらします。その矛先は手を加えた本人であるかもしれませんし、時としてその次世代であるかもしれません。

人間と自然環境との繋がり

海洋資源の乱獲などは、昨今の水族館業界で注目されている話題の一つです。海洋生物せよ、天然資源にせよ、乱獲により持続可能性を維持できなくなることが危惧されています。人間と生き物とがいつまでも共存できるようにするためには、「人々がどのように資源へ影響を与え、かつそれが人間や生物にどのような形で返ってくるか」感情論を排し、事実を整理して論理的な議論が必要です。

けれど、自然界には未解明なことが無限に存在します。そして事実が不確かなまま、人々は自己の利益だけを追求します。その行動の中には、時に地域の人々の間の心の繋がりをもたらす文化として社会に定着しているものも数多く存在します。このことが、他の文化を持つ人々との間に軋轢を生んでいます。

この不安定な状況下で私たちが忘れてはならないのは、私たちが自然環境から多大な恩恵を享受していることではないでしょうか。その心は、例えば日本人にとって、森羅万象に対する「いただきます」の言葉に表れているのかもしれません。現代社会の最適化された生活の中で、私たちは「窓ガラスの向こうにはいつも自然環境が共にある」ということを感じ取る感性を、鈍らせてはいけないのでしょう。水族館は、それを助ける活動も担っているはずです。

補記

本トピックを書く前に、海を守ることの重要性については、私ももっと勉強したいと思っていました。この点はもっと深めて、改めて書きたいと思います。

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