2100年に向けた環境教育

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環境教育を「生物多様性を次世代へ受継ぐために行動する人」の育成であるとしたとき、その活動においても活動の提供者においても、いまこの瞬間の全力の体験と、それを展開させ他者と共有することが重要になっていく。

1月、2月と、水族館教育や環境教育に関する研究会やフォーラムへ立て続けに参画してきました。その前には昨年末に「2100年に向けた生き方の設計――いまを自分らしく生き抜く私たちへ送る餞」という史上最大スケールの話をする機会がありましたが、そこでの思考を、環境教育分野へ射影する機会となりました。このブログでも何度か環境教育に関して議論をしてきましたが、今読み返すとだいぶアイデアが更新されているので、イベントの振り返りも兼ねて、2100年も見据えながら、その本質を改めて整理してみようと思います。

環境教育という活動

このたび、「環境教育とは何か?」というテーマを問いかけられ、その守備範囲を再定義する必要がありそうだと感じています。その結果として、今一度、私は環境教育を「生物多様性を次世代へ受継ぐために行動する人」の育成であると定義します。

私はここ最近になって、Y世代やZ世代という表現を使うのをやめています。多彩なタレントを有する数多くのZ世代の人々と接してきて、あまりにも言葉の捉えている対象が抽象的過ぎて、本質を見失わせる表現だと感じるからです。

そういう人々と、環境教育について語ってみると、私自身の中でもまだまだ、水族館の中から見た「環境教育」というイメージにかなり引きずられているように感じました。私はもともと環境保護や自然保護とは無縁で育ち、水族館でのボランティア活動を始めてからこの領域に深く引きずり込まれた、「水族館育ち」です。そのため、環境教育というフィールドをずっと、水族館の中からの射程で捉えてきていたのです。それは、水族館が「4つの機能」の1つとして掲げている「教育」にほかならず、その目指すものは、来場する人々との間でまだまだ認識の共有がなかなか十分にできていないものです。

その前提の下で私が捉える環境教育とは、ふれあい展示に象徴されるように、未知の生き物へ自らの五感で触れて感じ取り、その不思議さやおもしろさから興味関心を呼び起こすという一連の活動なのです。これは、私の師匠が、新人の水族館職員へ伝えている「まず水槽を1時間観察してごらん」という言葉に象徴される態度です。生き物の面白さを伝える活動は、まず自分自身が「面白い!」と感じるところを見つけることから始まります。そうやって、生き物を真剣に観察することを通じて、それらを見る眼を共に養っていくのです。

ところが、業界外の一般の人々からみれば、「環境教育」というワード自体が得てして、私のブログ並にカチカチで、敷居を高く感じられてしまいがちです。学校における一斉授業よろしく、実態は水族館と同様にアクティブラーニングにより「自ら気づいてもらう」ことを目指していながらも、そこへ先行して、イメージされるのは小難しい専門用語で理論武装した詰め込み型の「教育」になってしまうということです。ですので、そうした認識のずれに対して、私はもっと自覚的になる必要があり、その態度も含めて「自ら気づき、それを分かち合う」という一連の活動だと捉えています。

多様性の尊重

では、多様性とは何でしょうか。端的に言えば、それは「見え方」の違いです。そして見え方の違いを知ったうえで自らの頭で考えることが、その尊重につながります。先に引き続いて、D&Iという言葉も安易に使うことが嫌いです。多様なものを寄せ集めておけばよいだろう、という心構えで解決する問題ではありません。

生物多様性とは、教科書だと、生態系の多様性、種の多様性、そして遺伝子の多様性を指します。しかし、殊にこの分野で活動する人たちは、そこで思考停止することは無いでしょう。これについては、やはり師匠から教わった、「多様性を大切にする発想とは、多様なものの中には自身の嫌いなものも含まれているという事実を認めてそれを引き受けることだ」(本川達雄『生物多様性』(2015)より)という言葉が指針となります。

ダイバーシティについて考えるにあたっての基本原則は、自分と他者の見えている世界が違うということです。社会的に、「当たり前」だとされる常識や「正しい」と信じられる価値観というのは、時代とともに移ろいます。100年もたてば、変わらないものはそれこそ骨董品くらいなものです。そして人々はそれらを自らの意思で選択しているようでいて実は、メディアやスマホ、AIなどによって得てして「選ばされている」ものです。そうして、多くの人が選ばされた常識や価値観が、社会全体の世論や民意といったものを塗り替えていきます。しかし、ひとたび人が獲得した「当たり前」や「正しさ」というものは、質の悪いことに自らの中に深く根付いてしまい、それを捨て去ることはなかなかに難しい厄介です。特に、その常識の下で努力して成功体験を掴んでしまうと、ほんとうに始末が悪いです。そういうしょうもないものが、異なる常識や価値観が相対したときに衝突(コンフリクト)を引き起こすのです。

そこで必要になるものは、まずは周りに流されることなく、自分の頭で考えて自分で行動して自分で責任を持つことに尽きます。自らの信じるものは、他者から押し付けられるものではなく、主体的に選択し、自らの行動を信念をもって決定することが必要です。そこには、時には変わることを恐れないという、強い精神力も必要です。そしてそのためには、あらゆる世界や常識へ接触し関与することで、本質を見きわめる審美眼を養い続けることが何よりも重要です。

生物多様性の尊重というのは、本来その次元のものだと思います。同じ対象であっても、人によって、さらに前提知識や育ってきた環境や文化によって、まったく見え方は異なってきます。とりわけ気候変動や環境問題のような複雑系については顕著です。自分以外の人と共にそこへ取り組もうとするのならば、端から「当たり前」とするものが違うことを理解していなければなりません。自分が嫌いでどうでもいいものでも、他者にとってはかけがえのないものかもしれません。他者からは全く違う見え方をしているということへ、常に意識を向ける必要があるのです。

イノベーションと再構築

そうして、環境教育や生物多様性の本質を見つめ直した時に、いま必要なものは、いまこの瞬間の全力の体験と、それを展開させ他者と共有することでしょう。それらを繋ぎ組み替えていくことが、新しいソリューションが生まれます。本日最後の、私の濫用注意ワードは、ソーシャルビジネスやイノベーションです。

水族館育ちの私は、水族館の教育活動を起点として、その社会性へ着目してきた訳ですが、組織間協働や異業種間連携について調べれば調べるほど、地域振興の拠点やハブとしての機能も見逃すことはできなくなります。ローカルの視点では、水族館に限らず、地域の様々な事業が、地元に点在している、生態系に限らず労働・技術・資金・情報・政策・ナレッジなどのあらゆる資源を集約し活用することで成り立ち、持続可能性を高めています。環境教育においても同様に、そのような連携によって、活動をより発展させ、「イノベーション」を起こすことができるでしょう。

イノベーションという言葉は、巷でイメージされている新技術というよりも、教科書的な意味である、新たな要素の組合せ、つまり新結合そのものとして捉えることが重要でしょう。そのためには、個々の主体が同時多発的に活動していながらも、人・自然・事業領域・地理的拠点・世代・セグメントなどのあらゆる観点で細分化され分断されている、各地域のローカルの取組みを接続し、資源や情報の交換を通じて、それらの間の関係性すなわちネットワークをグローバルに俯瞰して再構築していくことが必要になってきます。そこには、テクノロジー活用による新たな可能性ももちろんあるでしょう。

これから、AI・メタバースによって、労働や学びの在り方もどんどん変わり、人々の体験や経験の格差はますます広がります。そこで必要になってくるものが、個々人が主体的に行動し、マクロなネットワークへ接続し参画していくという、アクセス性の高さです。さらにその際に、非同期のオンラインや非同時刻のレコーディング倍速視聴などだけではなく、いまこの瞬間に選ぶべき同時同時刻の機会を的確に見極め迷わず掴み取っていくという判断力も不可欠です。その観点でも、環境教育においては、はじめに自分自身が体験することが原点となりますし、それで終わらせることなく、さらにそこで得た経験を他人とつながって共有していくことで、情報を適切に処理し発信する態度にもつながります。つまりある種の全人教育です。

環境教育は、人々の五感を刺激し、潜在的な意識を呼び覚まし、人の興味を惹き出す一連の活動であり、環境教育の提供者は、そのための伝導者であり、同時に共に活動する活動家です。相手の持つ漠然としたもやもやを、言語化や可視化をして引き出し形作って気づかせられるリーダーシップをもった人材が、これからますます重要になっていきます。総合芸術である水族館においては特に、そのようなリーダーシップと、様々なネットワークへ接続し資源を調整し獲得するマネジメントの力が試されていくでしょう。

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