ソーシャルイノベーション

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イノベーションよりも、当事者の問題として闘うことの方が本質ではないか。

残酷な現実と向き合う

前回のブログ記事でも書いた葛藤「私たちはZ世代へ都合良く夢を抱かせて利用しているだけではないのか?」が、確信に変わってきています。

私たちが手にしている恩恵は、もれなく「元弱小ベンチャー」からの贈り物であり、玉石石石石石混交の中から、ありえないほどハイリスクで数多の批判に晒され続けるサバイバルを生き抜いた、スーパーヒーローの努力と幸運の結晶でしかないので。まさしく、私の指導教官が言い切った「起業を勧める教育も政策も、若者に特攻を強いるのと等しい行為だ」という言葉通りではないのだろうか。

理不尽な社会を変えたい。ここまでめちゃくちゃなコロナ対応を見ていると、さすがの私でも、若者のそんな思いは理解できる気がします。しかし、イノベーションの研究を通じて、「そのために就職すべきか?起業すべきか?」などの職業選択上の単純な問いであっても、大人として薄っぺらいアドバイスをすることの責任の重さを思い知っているつもりです。そんな激励よりもむしろ、「あなたくらい優秀な大人たちが束になって変えようとしてきた社会こそが今なんだから、そんな簡単に変えられないのだ」というファクトを提示することの方が、大人のとる態度としてよほど倫理的だと感じています。

自分自身と向き合う

「社会を変えたい、と願う熱い思いを持った人こそ起業すべき」みたく、背中を押す姿勢は嫌いです。経営者になることは、社会変革やソーシャルイノベのための十分条件どころか必要条件ですらないのに、なぜ「起業すればソーシャルイノベのヒーローになれる」みたいな論調みたいになるのでしょうか。そんな誰しもが、ルーク・スカイウォーカーみたくウルトラC発揮できませんて。それに、企業家に向いているか否かの適性みたいな議論も嫌いです。適性なんて、本来自分で見出すものではないでしょうか。生育環境・家族構成・教育課程・交友関係・社会情勢、その他どれをとっても、結局自分のことは自分で理解を深めて、自らコントロールしていくしかないでしょう。

だって、その過程で、見えてくるものがあるはずですもの。自分はどれほど不利な選択を強いられてきたのか。その一方で、自分がどれほど恵まれた立場で闘ってこれたのか。例えそれらの大半が、自分自身に責任のないことの結果であったとしても、世間の誰も、そんな言い訳聞いてくれないのです。恵まれていようがいまいが、生きている限りは、現実を直視しなければならないのも、闘わなければならないのも一緒。昨今流行りのインクルージョンは、上辺だけを撫でるのではなく、そういう言い訳の効かない格差が存在することに絶望して、その存在を前提として受け入れなければ、絶対に実現出来ません。

目の前の人と向き合う

では、どのように社会を変えていけば良いのでしょう?まずそもそも、私だって「社会を変えたい」という思い上がった動機を持っていますけれど、それが生涯を賭して挑む仕事で通用する人間はそんなに多いのでしょうか。むしろ「社会変革」よりも、「自分らしく瑞々しく生きる」ことのほうが、職業選択においてずっとずっと重要ではないでしょうか?自分の現状をもたらしたのは、あくまで「社会を変えたい」という動機に勝る、自分がこれまでとりえた選択の中で、最も選びたいと思ったものたちを選び取ったことの積み重ねなのです。その中で、他者からの承認欲求を得られた、成功体験に囚われているだけなのです。つまるところ、人間は所詮、承認欲求を満たすために生きている、ちっぽけな存在なのです。「イノベーションは、起こそうとするものではない」とはよく言ったもので、誰が抱えているかもわからない問題ではなく、もっと自分の目の前の人(You)が抱えている課題へきちんと対峙して、当事者(We)の問題として見極めることのほうが、本源的価値も時間的価値も高めるのだと思います。もしかしたらその過程で、イノベーションは生まれるのかもしれない。

ここで、目の前の人(You)に向き合うことは、決して自分主体の「好きなことを仕事にする」ことにも「嫌いなことへ立ち向かう仕事をする」ことにも一致しないはずです。自分が生きやすい社会を作りたいのなら、誰からも干渉されない隔絶された世界で自給自足するしかありません。社会で働くということは、あくまで目の前にいる人のお困りごとを解決へ導くことからしか始まりません。そして、ひたむきに目の前の人に向き合い続けたとしても、イノベーションへ結びつく保証も全くありません。私に関しては、少なくとも短期的にやりたいことと仕事が一致している、非常に恵まれている状況にいます。もちろん、「社会を変えたい」という長期的な願いへ結びつく経路上を進んでいることを願っていますが、私ごときが多少努力したところで変革できるほど簡単な社会だとしたら誰も苦労しません。

再び、現実と向き合う

仮に、目の前の人に向き合った結果として、当事者の課題がうまく解決されたとしましょう。だとしてもそう話は単純ではありません。見えないところで思わぬ副作用をもたらしていることなんてザラです。当事者の問題を解決することと、社会を変えることは全く異なります。わたしたち(We)という関係は所詮、互いの承認欲求を満たしあうことで成り立っているのです。

そして、人は見たいように見ます。イノベーションを起こし、社会へインパクトをもたらしたつもりになっていても、実のところは狭い世界で満足げになっているだけになっているだけかもしれません。自分の手の届かない範囲は見なかったことにしていれば、どれほど楽なことでしょう。けれどそれでは、自分が恵まれている立場にいることから逃げているだけで、インクルージョンとは対極の位置に居続けることになります。そのことへ意識を向けたとき、当事者(We)の範囲が再定義されます。その中で再び、私たちは当事者(We)の問題として闘い、創意工夫し続けるしかないでしょう。

その結果、自分には無理だと挫折するかもしれません。それこそが、自分らしくありのままに生きることではないでしょうか。きっと、当事者としてひたむきに生きていれば、誰かはその努力をきちんと見ているはずです。

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